本日2009年12月23日、『 咲夜語り』シリーズの第五話をお送りいたします。今回は美希が咲夜の足跡をたどるために、『らき☆すた』の聖地、鷲宮神社を訪問したときのお話となります。
以前ブログで連載していたものにさらに加筆していますので、そちらですでにお読みいただいた方も、もしよければお読みくださいませ。
もしこれをお読みになって『柊咲夜って何者?』と思われた方は、
お手数ですが
「いばらの森奇譚」
「副委員長とあたし」
「初冬のひととき/終わりの始まり」
「あいいろ魔法少女」
も合わせてお読みいただければと切に願います。
「鷲宮神社道行」
・一話完結もの
・シリアス
確かあれは、あの娘との他愛もない会話の中でのことだ。
「みちゆき……? 聞いたことない。どういう字を書くの、それって」
聞きなれない言葉に、思わず私はベッドに横たわる彼女に疑問をぶつけた。
「道路の『道』に行くって書くんだよ。まあぶっちゃけ、旅行するって意味だけど。歌舞伎では『道行モノ』っていうジャンルがあって、特に駆け落ちや心中的なストーリーが多いって話」
「へー、咲って歌舞伎なんて見るんだ」
「ごめん、正直そっち方面はさっぱりわからん」
「何よ、それ」
「でも美希といっしょなら、道行も悪くないかなって思って」
「莫迦。あんまり不吉なこと言わないでよ」
懸命に内心の動揺を抑えながら、私はなんとか別の話題を振る。
「旅行って言えば、どこか行きたい所のリクエストってある?」
「そうだねー。フィンランドには一度帰ってみたいかも。特にクリスマスの頃に」
「咲はフィンランドの大ファンだもんね。じゃあ行こうか、凪さんや万梨亜さんとかもいっしょに」
「いやいやいや、普通に無理でしょ。一人あたま何十万円もかかるのに」
「お金なら私がなんとかする。花菱の……」
「はいストーップ。アブない発言禁止っ」
突然、彼女が私の言葉をさえぎった。私のことを軽く睨みながら。
「そりゃ確かにフィンランドには思い入れもあるけど、美希に嫌な思いをさせてまで行こうとは思わないよ」
「私のことなんかどうだっていいのよ。咲が喜んでくれるんなら」
「そういうわけはいかない。だって美希は、あたしにとってこの世で一番大切な人なんだから」
言葉に詰まる。どこまでも真摯な表情でこういうストレートな物言いをされるのが、実は私は一番弱い。もっと早く彼女と出会っていたら、あるいは私の人生も違ったものになっていたのかも知れない。
「じゃあこういうのはどう? 二人で鷲宮神社に初詣、みたいな」
そんな思いも知ってか知らずか、彼女はさっさと別の話題を振ってきた。
「鷲宮神社って確か『らき☆すた』の柊シスターズの家のモデルになったところよね」
「そうそう、埼玉の方にあるんだって。一度行ってみたいと思ってたんだよねー」
「うん、わかった。じゃあ必ず行こう、二人で鷲宮神社へ。約束破ったら許さないぞ」
「約束する。必ず守るよ」
私は無言で咲夜のか細く冷え切った手をそっと握った。握り返されることなんか期待していなかった。すでに彼女の病状は、そんなささやかな自由さえ許さなかったから。
でもただそれだけで私は充分に幸せだ。
ただ彼女の傍らに寄り添っていられるだけで充分に幸せだ。
たとえ握り返されることがなくても。
たとえ血の気が感じられないほど冷え切っていても。
たとえ果たされることの見込みのない約束だったとしても。
この時の彼女の手の感触を、私は絶対に忘れない。
絶対に忘れない。
絶対に。
なぜならそれは、私にとってどんな宝物にも代えられない、至福の思い出の欠片なのだから。
そして最悪の冬が去り、足早に春がやって来て。
私だけが中学三年生となった──
「鷲宮神社道行」
東武伊勢崎線の緩行電車から、私は何人かの人たちと共にホームに降り立った。そこはちょっとひなびた、相対式ホームをそなえた駅である。都会というには乗り降りする乗客が少なすぎ、かと言って田舎と呼ぶには設備が整いすぎているように見える。
ドアを出たとたん、むっとする熱気が身体をつつむ。外の世界は雲一つない五月晴れ。初夏を思わせる強い陽射しがあたりの景色に強烈なコントラストを与え
ている。おそらく気温は三十度近い。でも湿度が低いおかげで、それほど不快ではない感じ。電車のクーラーで身体がずいぶん冷えてしまったから、というのも
あるだろうか。
ふと思い立って、ケータイを取り出し電源を切った。これで私はどこまでも追いかけてくる不愉快な現実から完全に切り離される。今日このひとときだけは、
一ヶ月前から計画していたこの聖地巡礼だけは、誰にも邪魔されたくない。あとで各方面からいろいろと文句を言われるのだろうが、そんなの知ったことか。
世間的には、今回の関東行きは高校の選定のためということになっている。もちろんそれにかかわるいろいろな用事はほぼ済ませた。たとえば、候補に挙がっ
ている学校の下見とか、ロングステイをお願いする予定のお宅へのごあいさつとか。だが私には、もうひとつの目的があった。それがこの『聖地巡礼』である。
いつの間にかSS職人と自称するようになってしまった私は、そのきっかけとなった作品『らき☆すた』の舞台となった場所を訪問してみたい、という想いをいだいていた。それはまた、咲夜と交わした約束を果たすことでもあるから。
そんなことを考えていたら、いつの間にかホームには誰もいなくなっていた。少し不気味な印象を抱えながら、無人のホームの階段を登って改札へと向かう。
不意打ちだった。
改札の手前のスペースに、噂のらき☆すた神輿が置かれていたのだ。おもわずカメラを構えたい衝動にかられるが、なんとか自重することに成功する。あまりに恥ずかしいマネは慎まないと。どこに人目があるかもわからないから。
自動改札を通り抜け、連絡橋から階段をおりて駅前道路へ。ここにはほとんどの駅と同じように、上り方向だけにエスカレーターがついている。あらかじめキャリーカートを東京駅のコインロッカーに預けておいたのは、どうやら正しい判断だったらしい。
一人でほの暗い階段を下りていると、ふと咲夜の言葉が思い出された。
『本当に足の不自由な人が怖い思いをするのは、どっちかっていうと、下り方向だったりするんだけどね』
駅の外にでてみて、少々驚いた。東京から一時間ほど離れただけで、これほどまでに風景が激変するとは思わなかったから。
ほぼ無人の駅前。
みごとなまでに高い建物がない。都内はもちろん、さきほど通過したばかりの春日部の町並みと比べても、そこはあまりにも閑散とした光景だった。
小さなロータリーにタクシーが一台だけ止まっていたのが、なぜか風情を感じさせる。とりあえずそれをカメラで撮る。

さらに見回すとロータリーの一角に、ひときわ目立つ『かぐらのまち鷲宮にようこそ』という看板が立っていた。というわけで、これも撮影。

これはSSのネタになりそうだ。たとえば神楽を舞う柊姉妹とか。はたしてバイト巫女に、そこまでのスキルがあるかどうか知らないが、そこに突っ込むのは無粋というものだろう。
念のためにもう一度左右を見回し、人の姿がないことを確かめてから、私はふところのパスケースを取り出した。そして中の写真の人に辺りの風景がよく見えるよう、できるだけ高くかざしながら、心の中でそっとつぶやく。
ほら咲夜、見えるかな。ここが鷲宮の町。
かがみとつかさが生まれ育った町だよ。
いつの日か二人でここに来ようって約束したよね。
今のあなたは小さな写真だけど、ちゃんといっしょだからね?
思わず鼻の奥がつーんとなる。歯を食いしばり、懸命にその衝動を押さえ込む。
──涙なんか絶対に流すものか。
──今はまだ、その時じゃない。
◇
最初のうちは線路に沿って歩いていたのだが、ころあいを見計らって私は線路から離れ、住宅街を突っ切ることにした。残念ながらこのまま歩き続けていても、永遠に神社にたどり着くことはできない。
隙間なく家が立ち並ぶ住宅街。
ここには生気がない。
人の気配が感じられない。
小鳥の姿ひとつ見かけない。
風が吹いても木々のざわめきひとつ聞こえない。
暑いはずなのに悪寒が走る。なんて寒々とした光景なんだろう。
脳裏に咲夜との会話が蘇える。確かアレは、いっしょに学校に通い始めた頃だっただろうか。
『この土地はね、なんか息吹ってモンが感じられるんだよねー』
『息吹? それはまた、ずいぶんとおおげさね』
『きっと美希にもわかるよ。もう少し都会の街を、五分も歩いてみれば』
『そういうモンかな。よくわかんないけど』
その時はピンと来なかったが、今ではあの娘の言いたいことが痛いほどわかる。まるで私一人だけが、この墓地のような住宅街に取り残されてしまったようだ。一刻も早くここから逃れたいと切実に思いにかられ、私の歩みは自然と早まった。

やがて小さな川が私の行く手をさえぎる。見回すと、少し離れたところに一本の橋が架かっていた。朱塗りの欄干が五月の陽光に照らされ、自らの存在を高らかにアピールしているかのようである。おそらくあれが宮前橋。『らき☆すた』で何度も登場した場所だ。

なかでも一番印象深かったのは、かがみが携帯電話に向かって「もう私、知らないからねっ!」と怒鳴った瞬間に電話が切れてしまい、かけ直して「さっきはごめん」と謝るシーン。劇中では明らかになっていないが、あの時の話し相手はこなたに違いないと勝手に思っている。
橋の左手には、さきほどから見えていた緑の林が一段と大きく見えていた。おそらくあれが鎮守の森。もう目的地は目と鼻の先だ。不思議な感慨が私の胸を満たしていくのを感じずにはいられなかった。

ところで写真撮影に活躍しているのは、ニコン製の中古のデジタル一眼レフである。少しばかり重たいのと、思いっきり目立ってしまうのが玉に傷だが、その
どこまでもシャープな画像は、携帯電話の内蔵カメラなんかとても比較にならない。その感動的なまでに美しい画像を目にしてしまうと、多少の欠点などまるっ
きり気にならなくなってしまう。
そんなわけで、今回も旅のお供としてトートバッグの奥深くにしまい込んできた。さすがに住宅街では自重していたが、ここからは存分に活躍してもらうことにしよう。
◇
宮前橋を渡ってさらに一分ほど北に向かって歩くと、神社の駐車場らしき場所に突き当たった。ゴールデンウィークにもかかわらず、いやだからこそというべきなのか、七〜八割がた車で埋まっている。

そこで、生まれてまだ経っていないと思われる小さな赤ん坊を連れた若い夫婦が、かなり大型の乗用車から降りてくるのが目に入った。おそらくはお宮参りか何かなのだろう。さすがは関東最古の神社といわれるだけのことはある、と妙に納得してしまった。
駐車場の向こうには有名な大鳥居と大西茶屋が見える。今さらどうこういうのもアレだが、アニメ「らき☆すた」のオープニングで、かがみが曲に合わせて肩を揺らしながら歩くカットで使われている場所だ。
なんとかして茶屋の写真も撮影したいと思ったのだが、残念ながら店の前にはいかにもそれっぽい人間が何人もうろうろしていたので、なんとなく撮影は見合
わせた。不用意に見知らぬ他人にカメラを向け、思わぬトラブルに巻き込まれるリスクを犯すのは、あまり賢いやり方とはいえない。
それにしても少しばかり驚いた。もうアニメの放送が終了して二年近いのに、未だにこうして聖地巡礼をする人々が存在することがである。そこまで考えて思わず笑い出しそうになった。そもそも自分だってその一人なのだから。
その昔、ニコ動にアップされていた聖地巡礼の動画を生暖かい目で見ていた頃には、まさか自分もそういう行為に走るとは想像もしなかった。どうやら人生とかいうゲームは、私が思っていた以上に劇的なものらしい。

人の波が途切れたところを狙い、お約束の大鳥居を一枚。これこそ神社のシンボルとても呼ぶべき存在だ。高さはざっと五メートル、いやそれ以上だろうか。
少なくとも地元のそれよりはずいぶんと立派なものである。ただ、よりにもよって鳥居のすぐ脇に電柱が立っているのがどうにも興ざめだ。いろいろな角度で試
してみたが、どうしても写真に写りこんでしまう。仮にも貴重な文化財だろうに、もう少し景観に配慮してほしいものだ。
しかし鳥居をくぐってみると、そこにはまったくの別世界が広がっていた。
うっそうと生い茂る鎮守の森を切り裂くような参道に沿って、まるで道行く人々を見守るかのように赤いとうろうが点々と連なっている。適度に柔らかな陽光
と境内の外よりも涼しげな空気が、暑さに痛めつけられた私の身体をそっと包み込んでくれる。そよ風になぶられ、周りの木々の枝が耳障りのいいささやき声を
交わしているのが聞こえる。一歩足を進めるごとに、ここにくるまで通り抜けてきた住宅街がすぐ外に存在していることなど、なにかの間違いではないかとさえ
思えてくる。
まさしくそこは、聖域と呼ばれるにふさわしい場所だった。
そんな参道に沿ってしばらく歩いていくと、左手に小さな池が見えてきた。そこは聖域であるはずの境内でも、さらに異質な存在感をはなってい
るように思われた。異世界、いやいっそのこと小宇宙とでも呼ぼうか。あまりに不思議な光景だったので、人目をはばかるのも忘れて何度もシャッターを切っ
た。

池のすぐ脇には、両手いっぱいほどの文字だらけの看板が立てられていた。なにやら由来が書いてるようなので読んでみると、どうやらそこは龍神様の住まう池らしい。ちょっとその内容を要約してみよう。

『長いこと埋もれていた池を、平成の境内整備事業で工事を行っていたところ、突然水が湧き出して龍のような雲が空を覆った。その時のご神託で、それ以後この池を「光天之池(みひかりの池)」と呼ぶようになった』
そういえば、私の地元にも少々風変わりな龍神の昔話や、龍ヶ淵と呼ばれる地名があることを思い出す。ただここでは平成の世の中でも不思議な現象が起こっているのだろうか。周りの景色を改めて見回すと、確かにそんなことがあってもあまり違和感がない気がした。
光天之池(みひかりの池)を離れ、さらに参道を進もうと思ったのだが、ふと右手を見ると何人かの人々が足を止めて何かに見入っているのが目に入った。よ
く見ると一本の大木の根元に、無数の絵馬がぶら下げられているようだ。どうやらあれが、噂に高い『痛絵馬』の奉納所らしい。

近寄ってみると、それはもう聞きしに勝るカオスっぷりだった。「らき☆すた」のキャラ達にちなんだイラストが書き込まれた、数え切れないほどの絵馬の大
群に圧倒されてしまう。しかしよくよく観察してみると、それらの中に混ざって合格祈願や家内安全など、普通の願いを書き込んだ絵馬もちらほらと。可哀想だ
が、そういう普通の絵馬の方がむしろ肩身が狭そうである。

どうやら近所の方であるらしいお年寄りと幼児の二人連れが、興味深そうに絵馬を眺めているのがとても印象的だった。
「これ、かわいーねー」
「ああ、そうやね」
そんな何気ないやり取りが耳にはいり、思わず私の頬も緩んでしまう。そこに、はるばる聖地にやってくる人々の想いと、それを見守る地元の人たちの優しげなまなざしという構図が見えた……というのは、やや大げさにすぎるだろうか。
絵馬の奉納所からそう遠くないところに御神殿がある。そこではちょうど何かの奏上が行われているようだった。すだれのようなものが下りていたので中の様
子をうかがい知ることはできなかったが、ひょっとしたら先ほど見かけた赤ん坊連れの一家がご祈祷でもお願いしたのだろうか。そんなわけで、ここでもカメラ
を向けるのは控え、その代わり中の人々に邪魔にならないようにそっと手を合わせた。

その後、境内を一回りしてから再び大西茶屋の前まで戻った。出入口のすぐ外にはお勧めメニューらしきものが書き込まれたボードが飾られている。それにしても、この『バルサミコ酢シューソフト』とかいうのはいったいどんな食べ物なのだろう。
そのいかにも妖しげなメニューはさておいて、何か冷たいものでも頼もうかと薄暗い店の内部をのぞいて見た。しかし中はほぼ満席状態。おまけにことごとく男性ばかりのようだ。どうやら飲み物は諦めるしかないらしい。
ひょっとして以前の自分だったら、その程度の事実などまるっきり黙殺してどこかの空席に座り込んだかもしれない。でも今は、そんなリスクを犯すつもりは
さらさらなかった。いつの間にか私は、自分の身体をとても大切に感じるようになっていたからだ。それはもちろん、私自身はすでに私一人のものではない、と
いう単純な事実にほかならない。
なぜならあの初冬の日の夜に、あの娘のか細い身体を両手で優しく抱き締めながら、私は永遠の誓約を行ったのだから。
私の心は、すべて咲夜のもの。
私の身体は、すべて咲夜のもの。
つま先から頭の髪の毛一本に至るまで、すべて咲夜のもの。
たとえどんな理由があろうとも。
たとえどこの誰であろうとも。
たとえ指一本であろうとも。
触れることなど許さない。
絶対に許さない。
絶対に。
◇
気がつくと、いつの間にか全身に重だるい疲労が溜まっていた。腕時計が時間切れだと知らせてくれている。もたもたしてると帰りの特急列車に乗り遅れてしまうかも知れない。
いちおうSSを書くための最小限の情報収集と、現地の空気の確認という目的は達したはず。そう自分自身に言い聞かせながらトートバッグにカメラをしまい込むと、急いでもと来た道を引き返すことにした。
エスカレータを使って地上からこじんまりとした駅舎に登り、券売機で浅草までの切符を購入。再び自動改札を通り抜ける。やはりここまで誰一人すれ違う人はいない。
昼だというのに薄暗く、まるで人気のない灰色の階段が私を待ち構えている。まるで見知らぬ世界への入口みたいだなと思った瞬間、得体の知れない何かが胸の中でざわりと動くのを感じた。あまりの気味の悪さに、二の腕に鳥肌が立ってしまう。
それはひょっとしたらある種の予兆だったのかもしれない。
ようやく階段の中ほどまで下った時のことだ。不意に世界がぐらりと揺れたように感じた。とっさにすぐ脇の手すりにしがみつく。だが脚にまるっきり力が入
らない。そのままぺたんと座り込んでしまう。一瞬遅れて全身から嫌な汗が噴き出す。万一あのまま階段を転げ落ちていたら、絶対に無事ではすまなかっただろ
う。
動悸が治まるまで、しばらくそのまま動けなかった。
そのうち、しだいに脚にひんやりとしたコンクリートの感触が蘇えってきた。おそらく感覚が戻ってきたのだろう。いつまでもこんな所でうずくまっている訳
にもいかない。気を取り直して立ち上がり、手すりをたよりに再び階段を下ろうとすると、どういうわけか咲夜の言葉が再び頭の中に浮かび上がった。
『本当に足の不自由な人が怖い思いをするのは、どっちかっていうと、下り方向だったりするんだけどね』
どうやら、そろそろ私にも杖の手助けが必要らしい。でもどうせなら、もう少し可愛げのあるのがいい。あの娘が使ってた、あのジュラルミン製の飾り気も何もないヤツよりも。
◇
ほどよくクッションの効いたシートと、一定間隔のリズムを刻む線路があまりにも心地よかったのだろうか。先ほど危ない目にあったばかりだというのに、いつの間にか東京に戻る電車の中ですっかり眠りこけてしまっていたらしい。
『美希、ほら着いたよ! 降りて降りてっ!』
突然耳元で咲夜の声が爆発して、私は夢の世界から現実へと無理やり引き戻された。何が起こったのかも把握しきれないまま、身体だけがまるで別の生き物の
ように行動を開始する。自分でも驚くほどの勢いで荷物を引っ掴むと、かなり混雑していた車内の人々をかき分けて電車を飛び降りた。
それから辺りを見回し、自分の立っている場所を特定しようとした。しかしその光景はどの記憶とも一致しない。ホームも駅舎も外の風景も、まるで見知らぬものばかりだった。
──ここ、どこ? 浅草じゃないよ。
掲示板を見ると、大きな字で『北千住』と書いてあるのがわかった。首都圏の地理に不慣れな私では、それを見てもはたして自分がどの辺りにいるのか見当もつかなかった。
胸の中に溢れかえる焦りと後悔を理性の力で脇に追いやる。動揺しても事態は改善しない。これからどうするか、それを考えよう。まずは現状把握からだ。
私を乗せていた電車はとっくの昔に発車していた。しかし幸いなことに次の電車は十分ほどでくるらしい。故郷では決してこうはいかない。一時間や二時間待ちは普通にありうる。それを確認して少し心を落ち着かせると、私はもう一度あたりの様子を眺めた。
長くて幅の広いホームがいくつもあって、それぞれに電車待ちと思われる人々が小さな行列を作っている。数え切れないほどの蛍光灯がそれらの光景を照らし
出していた。外にも頑丈なコンクリート製とおぼしき箱型のビルがいくつも立ち並んでいる。銀色の光をはなつ金属製の『足立学園』と書かれた門柱がとても印
象的だった。
きっとここはさぞかし大きなターミナル駅なのだろう。それとも首都圏では、この程度の規模の駅はめずらしくないのだろうか。
だいぶ安心したのか、なんとなく小腹が空いた。あたりを見回して目に飛び込んできた、ホームにある駅の売店に入ってみることにする。そこは普通のKIOSKと違って、ちゃんとした自動ドアがついた建物の中にあった。まるで小さなコンビニのようだ。
お昼過ぎということもあってか、サンドイッチやおむすびの類はほとんど売切れに近い状態だった。残り少ない選択肢の中から、比較的まともそうだと思われる『チャーハンおむすび』を選び購入。飲み物は、確かまだ水筒の中に最後の水が残してあったはずだ。
そういえばチャーハン、というより炒めご飯は、日本はもちろんアジア各地でも比較的よく見られる調理法なのだという。肉や野菜を細かく刻んで油でさっと炒めるだけなのに、そのバリエーションは実に多彩だ。地域によって、いや各家庭ごとによっても違う味があるだろう。
それにしてもいったいどこの誰が、これをおむすびにしようなどと考えたのだろうか。握ってしまうと炒めたときのパラパラ感が薄れてしまうのだけど、ご飯
の炊き加減や味付け、そして具の配分を工夫しているのか、意外にいけるのが不思議だ。しかも油を使っているためだと思うのだけど、ほかのおむすびに比べて
わりとお腹持ちするので、小さくてもなかなかあなどれない。主にウエストの周辺において。
ホームに戻り、階段下の通行の邪魔にならない場所に移動してから、少々味の濃いおむすびを一気に平らげた。それからトートバッグから水筒とお昼の薬を取
り出して、一緒にお腹に押し込める。特に薄い水色の大きなタブレットの薬がすべりが悪くてとても飲みにくい。もたもたしてると口の中で溶け出し、苦味がい
つまでたっても残ってしまう。もう少し飲みやすいように改良してもらいたいものだ。そんなことを考えていたら、ふとまったく別のことに思い当たった。
──ああ、そうか。
──お昼の薬を飲み忘れないように
──声をかけてくれたんだ。
辺りに人が少なくてよかった。今の私は、さぞかしだらしない笑顔を浮かべているに違いないのだから。
◇
冷たい人工色の光に満たされた特急列車の車内は、連休中だというのに比較的閑散としていた。初夏を思わせる外の熱気が恋しくなるほどにクーラーが効いている。
列車の指定席の番号を切符と何度も照らし合わせ、そこが自分に割り当てられたものであることを確認してから、ようやく紫色のシートに体重をあずけた。なまじ座り心地がいいから、先ほどのように眠り込んでしまわないよう気をつけなければ。
ついでに、お気に入りのショールを取り出して膝にかけておく。本来は頭や肩にかけるものらしいが、私はもっぱら冷房対策用の膝掛けとして重宝させても
らっていた。強すぎるクーラーが動いてる室内でずっと座り続けていると、大抵身体が氷のように冷え切ってしまい、あとでいろいろと辛い思いを味わうことに
なる。腰を冷やすとロクなことはないという祖母の言葉には、私も諸手をあげて賛成するしかない。
ふと思い立ち、ケータイを取り出して電源を入れ直し、着信を確認する。祖母や何人かの信頼すべき友人たちの他に、どうにも不愉快極まりない現実を思い出
させてくれるメールが何通か届いていた。やれやれ、自宅に帰り着く前に、どうしても一度本宅に顔を出す必要があるようだ。
この際だからタクシーを使ってやろう。代金は呼び出した連中に押し付ければいいしね。ふん、ブルジョア万歳。思わず「このライヒは千年続くだろう」など
と右手を小さく上げて呟きたくなったが、それだけはなんとか我慢した。あまりにも悪ノリがすぎるし、誰もが咲夜のように諧謔を理解できるとは限らない。
せめてもの救いは、地元でタクシーを捕まえ「花菱まで」と一言添えれば、運転手が黙って本宅まで送り届けてくれることだろうか。少し前までなら『小娘風
情が花菱様に何用か』などと下種な詮索をされたものだが、最近はそういう莫迦にお目にかかることもなくなった。おそらくそれは、宗家の実権を掌握したこと
で得られた数少ない良き事の一つなのだろう。
小さくため息を吐きながら、私はそっとケータイを閉じた。
今のところ隣の席には人が来る気配はない。ちょうどいいのでトートバッグからデジカメを、足元のキャリーカートからネットブックを取り出し、写真の整理
をはじめることにした。デジカメからSDカードを取り出し、データをネットブックにコピーする。鷲宮で撮影した貴重な写真のデータだ。
この黒いネットブックは、かつて咲夜が私に見立ててくれたものだ。最初はネットの閲覧やメールのやり取り、そしてデジカメや音楽データの処理、さらには
まさかの
SSや動画の製作と、まさに縦横無尽の活躍ぶりだ。今やこうして旅先にまで持ってくるほどの必需品となりつつある。でも基本的に携帯性を重視したこの小さ
なPCでは、さすがにYoutubeのHD動画の製作まで行わせるのは酷というものだ。もし今後もああいう活動をするなら、もう少し高速なPCを用意すべ
きかもしれない。
画像ビューアソフトを起動すると、画面に広大な平地の写真が表示された。確かこれは鷲宮神社の北部を撮影したものだったはず。それを目にしたとたん、茶屋の脇の細い道から神社の北側の住宅街を歩いてみたときのことが、脳裏にまざまざと浮かび上がった──

歩き始めてものの一分ほどで家並みが途切れ、視界が一気に広がった。おそらく畑か何かだだろう。地平線の彼方には別の町らしいものも見えた。わざわざ峠に登ったり谷あいを見下ろす場所に行かなくても隣町が見えるという光景は、まるで私の想像の範囲外だった。

これだけ土地の雰囲気が違うと、住んでいる人間の思考形態にも何か影響があるのではないかという気がする。私の故郷のように山だらけのところ、東京のよ
うにビルだらけのところ、そしてこの鷲宮のように住宅と畑だらけの平地とか。こうしてみると、日本もなかなか広いものだと感心してしまう。

そういえば、鷲宮神社は埼玉県の鳥獣保護区に指定されているようだ。どのような生き物が潜んでいるのか知らないが、こうして北側から眺めた鎮守の森の雰
囲気は、社殿側から見たそれとはずいぶんと違っている。あちら側がいかにも聖域なら、こちら側はさしずめ粗野な自然。なんだかひょっこりタヌキでも顔を出
しそうな気がする──
どちらも同じ場所なのに、角度を変えるとまるで違った一面が見えてくる。それはとても大切なこと、たとえば人生の何事かについて教えられているように、私には思われたのだった。
◇
ネットブックをしまい込むとほぼ同時に、わずかな衝撃とともに列車が動き始めた。車窓の向こうに見える巨大な超高層ビルたちが最初はゆっくりと、だがしだいに加速しながら後ろへと流れ始める。
まるでうたかたの夢のような一泊二日の首都圏の旅は、まもなく終わろうとしている。故郷まではほんの数時間。そこには過酷な現実が牙を磨いで待ち受けている。それは確実な未来だ。だがその先にはいったい何が待ち受けているのだろう。咲夜のいない未来に。
しかし、何よりも大切ことを私は知っている。
去年の暮れ。一生分の幸せなひと時。その思い出を抱え、まだ見ぬ未来へ向かうことができる私は、きっとこの世の誰よりも恵まれているのだ。
この列車の走る軌道は故郷まで続いてる
この列車は私を故郷まで運んでいく
咲夜のいない抜け殻の故郷へと私を運んでいく
決して留まることのない時の流れのように
車窓の風景が前から後ろへと押し流されていく
人の住む街が
瑞々しい山河が
まばゆい藍色の空が
未来から過去へと押し流されていく
今日もこうして私は
彼女の背中を追いかける
彼女の歩いた軌跡をたどる
少しでも近づくために
少しでも理解するために
少しでも同じ景色を見るために
もし咲夜が天使だったのなら
もし地上に繋ぎとめることが不可能だったのなら
私は天使の翼を手に入れてみせよう
もしあの空のどこかに彼女が還ったのなら
もしあの空のどこかに彼女の故郷があるのなら
私は銀河鉄道を探し出してみせよう
それまでは
もう一度出会えると信じて
ただひとりで歩くのだ
この人生という名の道行を──
(Fin)
【あとがき】
もしこれをお読みになって『柊咲夜って何者?』と思われた方は、
お手数ですが
「いばらの森奇譚」
「副委員長とあたし」
「初冬のひととき/終わりの始まり」
「あいいろ魔法少女」
も合わせてお読みいただければと切に願います。